石川県金沢市の金沢城の西側にあったとされる「鼠多門」は、
発掘調査が3年間行われ、
2018年7月から本格的に工事が着手した末に、
2020年7月18日に完成しました。
同時に鼠多門に繋がる「鼠多門橋」も完成しました。
今回は、その鼠多門の由来や歴史、また観光のための
アクセス方法などを紹介したいと思います。
金沢城鼠多門の由来と特徴
鼠多門の名前の由来は、以前建てられた時から、
「建設時にネズミが多くいた」や
「外観がネズミ色をしていた」
という2つの説が由来となり、
「鼠多門」と名付けられました。
しかし、今回の発掘調査により
黒漆喰が発見されたことにより、
「ネズミ色の外観」説が有力説となりました。
本来、金沢城をはじめ全国各地のお城には、
海鼠壁(なまこかべ)に
白漆喰が用いられることが多いのです。
黒漆喰を用いたお城や門が全国的に例がなく、
「鼠多門」が唯一とされているため、
「ネズミ色の外観」説が有力とされています。
他の城門である
「石川門」
「河北門」
「橋爪門」
とは異なる特殊な外観とされていました。
鼠多門は、石垣の上に
二階建ての櫓が備わった造りになっていて、
門をくぐり抜けると歴代の藩主が愛した
庭園「玉泉院丸」の敷地に通じます。
反対に鼠多門から今回完成した「鼠多門橋」を渡ると
金谷出丸(現・尾山神社)へと繋がります。
金沢城鼠多門の歴史
鼠多門の創建された年代は、
詳しくは明らかとなっておらず、
絵図や文献などから江戸時代前期には
すでに建てられ、存在していました。
そして、1759年(宝暦9年)に
城内の多くの建物が焼失する中、
鼠多門は焼失せずに原型をとどめました。
その後は、鼠多門橋を架け替え、修繕などを
繰り返しながら明治時代後半まで存在していました。
しかし、鼠多門橋は老朽化により取り壊され、
鼠多門は焼失していまい、復元されることなく、
お城を囲む周囲のお堀は埋め立てられ、
道路が造られました。
その後は、2008年に金沢城跡が国史跡に指定され、
2015年に鼠多門と鼠多門橋の復元させるために
「金沢城鼠多門等復元整備専門委員会」が設置されました。
2020年の「東京オリンピック」までの完成を目標に
建物や周辺の調査、文献調査、発掘調査が始まり、
2018年に工事が起工しました。
そして、2020年7月18日に
鼠多門・鼠多門橋共に完成しました。
金沢城について
金沢城は、
別名「尾山城」「尾上城」「金城」などと呼ばれ、
1580年(天正8年)に佐久間盛政により築城されました。
その後は、江戸時代に「加賀百万石」の名を馳せた
加賀藩主・前田家の居城であり、宝暦の大火後、
金沢城跡となった後は日本の陸軍の拠点として
使われるようになりました。
本丸がない現在でも、多くの遺構が残っており、
その半数以上が国の重要文化財に指定されています。
金沢城鼠多門への交通アクセス
今回は、「金沢駅」からと「武蔵が辻・近江町バス停」
からのルートでの行き方を紹介します。
- 「金沢駅」から「兼六園下」までバスが出ており、
「北陸鉄道路線バス」
「城下まち金沢周遊バス」
「兼六園シャトル」のいずれかのバスで約15分。
そして、「兼六園下」から徒歩で約5分で着くことができます。 - 「武蔵が辻・近江町バス停」から「兼六園下」まで
「金沢ふらっとバス材木ルート」バスで約20分。
その後、「兼六園下」から徒歩約5分で着くことができます。
まとめ
約140年ぶりに元々あった建物が
復元整備されることはとても素敵なことです。
また、ウイルスや自然災害などの被害に
遇われている方たちにも元気や勇気をもたらしてくれます。
金沢城跡周辺には、
日本三大名園「兼六園」、
江戸時代から続く「近江町市場」、
城下町にある「百万石通り」などもあり、
歩いて楽しめる観光スポットとなっています。
そして、これらが復元されたことによって、
本丸も復元されるきっかけになればいいなと思います。